こんにちはstelliterです。
今日はテニスの日々の取り組みにおいて、人はどのように上達していくのかに注目してみました。
これはテニスに限定されたことではなく、何でも当てはまる考え方だと思います。
それではいってみましょう
❝出来ているようで出来ていない❞
なにかのスキルを身に着けようと取り組んでいるときに
「よし!これでもう大丈夫」
「壁は完全に超えた!」
っていう瞬間があったりしないでしょうか。
一瞬何かを超えられた時、今まで出来なかったことができたとき。
それはそれは嬉しくって仕方ない瞬間だと思います。
でも、、長続きしなかったりとかしませんか?
「おかしいな先週は出来たんだけど」
「昨日は入ったサーブが入らなくなったぞ」
こういうこと、日常茶飯事ですよね。
でも、それはまだ出来ていなかったということはもうお分かりかと思います
❝コップの水に例えたら❞
コップに水を少しずつ足しているとしましょう。
そろそろ溢れるかなっていうとき、コップの淵あたりの液面はフラフラっと揺れていて、あっち行ったりこっち来たり。特にそのこっち来たりの瞬間に人は
「出来た!!」
と思ってしまうんですよね。
でもしばらくすると、、揺れてる液面の水がまた向こう側のコップの淵に行ってしまったとき、
「なんだよ~、先週は出来てたのに~」
と勝手な判断をしてしまうんです。
❝安心と挫折を繰り返してしまう❞
そういう期間ってそれこそ水の液面ではないですが、人の心もまた揺れてるんですよね。
ちょっと出来てきたときは
「やったー、これでもう大丈夫だ!、できたできた!」
などと言い、
次の日出来なくなると
「結局こないだまでと一緒じゃん、やっぱ難しいのかな自分には」
と考えてしまう。
そして何故かそこであきらめて取り組んできたことをやめてしまう場合もある。
“コップに水を足すことをやめてしまう”んですね。
まだ自分の中に落ち切っていないだけのスキルを勝手に判断してしまう。
そこであきらめずに水を足し続けていれば、、練習や取り組みを継続していたら、ある時に嫌でもコップの水がついに溢れる時がやってくるかもしれないのに。
❝身近な成長には気づかないもの❞
コップの水がもうそこまで、、コップの淵まで注がれてきたというのに、さっきの状況になったとき人は「やっぱりなかなか成長ってしないんだなぁ」と自分で思い込んでしまうんですね。
最初は全くできなかったことが、ようやくいま実を結ぼうとしているところまできたことを忘れてしまうのでしょうか。
コップの淵まで水を注げたという段階ですでに成長しているんですが、なかなか最後の溢れるところまでいかないと、人は自分の成長というものを実感できないんでしょうね。
❝若い人はコップの水の注がれ方が違う❞
ジュニアや若い選手って、比較的こういう思考がまだ定着しておらず、せっせと水を足し続ける(練習を続ける)。なんなら水が溢れる・溢れていないの判断そのものをしようとしていません。
まあ中にはあきらめの早い若者もいますが。
そしてその水の注がれ具合が若い人はとにかく早いもんだから、コップの淵とか意識していない間に水が溢れちゃうんです。
気が付いたら出来てました、、となるんですね。
しかし大人は違います。逆に吸収力が遅いのに加えて、結果を気にしやすい習性になってしまいがちですから、コップの淵の液面状態に非常に心が左右されやすいんです。
❝ただ通り過ぎているか、いちいち立ち止まるか❞
社会人になってからテニスを始めた大人が、いきなりすごいトップスピンを打っているジュニアをみて、
「すごいなーあれだけ打てるようになったら、自分ならめっちゃ嬉しいだろうな」
と思うんでしょうけど、当のジュニアはそんなことひとっつも感動していないんですよね。
そんな細かい段階で(大人には大変なんですよww)いちいち一喜一憂してる暇がないくらいに成長してしまうし、そこに価値を見出していないんです。
ただただ通り過ぎてしまう、
いい意味で思考が浅いんですよ。
大人は先にも書きましたが、コップの淵の液面当たりで結果を見よう、判断しようといちいち立ち止まってしまうんです。
❝意識しなかったから上手くいった❞
われわれ大人(中年過ぎてます自分)の話として、完全にできるようになったスキルを身に着けたときって、正確に何時だったか、、なんて説明できませんよね?ましてや絶対に細かくは覚えていない。
「だいたいあれは1年前くらいからかな~」みたいにまったくうろ覚えな記憶しか残っていないはず。
しかもそれが比較的初期のころから苦労しなかった自分の得意なショットなら、いつ習得できたかなんてなおさら覚えてないはずです。
それはまたまた繰り返しですが、コップの淵の液面の話です。
- あなたはそのショットに関しては水の注がれ具合が早かった(液面など気にする間もなく成長が早かった。才能があった)
- そのショットに興味がなかった。別に上手くなろうとしなかった(注がれ具合は早くなかったけど、溢れることを気にしなかった)
このどちらかなのではないでしょうか。
だから液面なんか見ていなかったんです。ただ練習を繰り返しているうちに(水は注がれ続けた)気が付いたら水が溢れて、意識しなくてもそのショットは打てるようになったんです。
逆に
「上手くなりたい、、上手くなるぞ、、明日には・来週には・いや来月こそ」
意気込みは素晴らしいんですが、必要以上にスキルの進捗状況を監視しすぎてコップの淵の液面ばかり見ているんです。
迷いが多くなりすぎてしまううんですね。
❝通り過ぎてから結果が見える❞
苦労しているとき、ようやく壁を越えかけたとき、自分は気づかないけどどうやら乗り越えたとき。
この段階ではまだ自分が越えようとしている山の景色に気が付かないと思います。
まだ自分が山のすぐそばにいるからです。
成長が見えない時というのはこういう意味でしょう
反対に、完全に山を乗り越えて振り返ったときにはじめてその様を見渡せるわけですから。
成長が見えた時というのはこういう意味ですよね。
❝ちょっとだけ出来てきたときがチャンス❞
一定期間取り組んでいても、まったく芽を吹かないのであればあきらめも時には必要です。人間好き嫌いもありますしね。
でもばらつきはあるものの、大抵人間なんでも出来たりするものです。
そしてその、
「なんかちょっとだけ出来てきたような・・・」
という自覚が芽生えたとき。継続のチャンスの鐘の音が鳴っているんです!
そこで立ち止まって自分を顧みるのは早すぎです。
時には調子が悪くなっても止まることなく継続し、ひたすら無心で積み上げるんです。
注ぐ水の量は関係ないです、コップに水を注ぎ続けるんです。
そうすれば二度と乾くことのない、溢れる水で満たされたコップを高々と掲げることができます。
❝まとめ❞
- 人は出来てるようで出来ていない
- 安心と挫折を繰り返す
- 立ち止まったらそこで確実に成長は止まる
- 身近な成長には気が付かないもの
- 意識しないでできたことは覚えてすらいない
- 意識しなかったから乗り越えられることもある
- 完全に通り過ぎてから初めて結果が見える
- ちょっとだけ出来てきたときがチャンス(そこでやめちゃいけない)
結局は頑張るしかない
どんなことでもそうですが、結局のところちょっとやそっとで上手くなれる、上達を実感できることなんてないっていうことです。
「魔法なんて存在しない、そこは頑張るしかない」
とてもいい言葉です。魔法なんてないんです。
頑張りましょう。
最後まで読んでくださってありがとうございました。